2005年2月19日(土)

三宅島帰島支援ボランティア活動レポート

 中央労金労組は、連合東京の呼びかけに賛同し、「三宅島帰島支援ボランティア」活動に労組代表として、桑原副委員長を派遣しました。2月10日(木)〜14日(月)の5日間、三宅島にてのボランティア活動に参加した報告を掲載します。


気の引き締まる思い
 出発日は、竹芝桟橋22:30発のさるびあ号に乗船するために、21:00に東海汽船客船ターミナルに集合しました。この日は私を含めて9名(基幹労連から2名・中央地区電力総連傘下から6名)が三宅島に渡ることになっていました。
 IDカードと真っ赤な帽子(ボランティアの証)とガスマスクを受けとり、乗船を待っていると、一人の女性が近づいてきて「ボランティア支援センターの皆さんですか」と声をかけられました。その方は、先発しているボランティアの支援を受けたようで、何度もお礼を言われ、我々は恐縮するとともに、活動が認知されているを知り、気の引き締まる思いがしました。
 さるびあ号は予定通り竹芝桟橋を出航し、船底に一番近い2等席で我々は、結団式(?)を1時間ほど行いました。多くの参加者は、今後どのように労組として帰島ボランティア活動に関わっていくことができるのか、その下見を目的として参加されていました。

三宅島に上陸できず?
 翌日は、5:00に三宅島に着く予定でしたので、皆早く寝ました。ところが東京湾を出たころだと思いますが、縦横上下とかなり揺れ、熟睡できないままでいると船内放送で「三宅島へは、シケのため接岸できないので、終着地の八丈島から折り返して再度アタックする」と流れてきました。結局我々は、片道6時間半の予定が16時間半もかかって14:00に三宅島に上陸することになりました。(あとから聞いた話ですが、帰島が始まって第一号とのことでした)

 三池港に下り立つと、多少火山ガスの匂いはしましたが、さほど気になるほどではありませんでした。港には出迎えの現地スタッフがいて、村営の無料バスに乗るように指示されました。島を3/4(約30分)ほど周回して宿営場所の「伊豆老人福祉館」(2階建て)に着きました。途中の景色は、木々が枯れ果てているところや、緑が残されているところなど、場所(風向きの関係)によって、全く異なっていました。
 結局1日目は、作業することなく、宿営場所に風呂がないため、車で3分ほど離れた「三宅島火山対策避難施設」(通称;クリーンハウス)に行って、ゆっくりとお風呂につかりました。夕食後に「紫苑(しえん)」と名づけられた1階のフロアーで、消灯の23:00まで、翌日島を離れる第2陣の皆さん(我々は第3陣)と意見交換や引継ぎを行いました。
 三宅島での活動の注意点は@必ず、IDカードを首からぶら下げて、支給された真っ赤な帽子をかぶり、ガスマスクを携帯すること、A作業中は、「三宅島帰島支援ボランティアセンター」の旗を見えるところに掲げること、B「三宅島時間」を守りゆっくり作業をすること、極力島民の方の思うようにしてあげること、C現地の方の仕事を奪ってしまうような作業については基本的に行わないこと、D島民の方とできるだけ多くコミュニケーションをとり、交流を深めることなどが、上げられました。
三宅島に一緒に渡ったメンバー
右手前が桑原副委員長
なぜか八丈島に到着 IDカード
ピンぼけでごめんなさい
出迎えの現地スタッフ 私たちの寝床
夕食時に報告会を開催 宿営場所の伊豆老人福祉会館

「三宅島時間」を体験
 2日目は、7:00に起床、7:30から朝食、8:30からミーティングを行い、当日の役割分担を決めました。この日は3班(朝、島に着かれた自治労東京本部の女姓1名を含む)に分かれて、作業を行いました。

 私は、商店を営む老夫婦の家の引越し作業を行いました(息子さんが2人手伝いにきていました)。4年半放置された家の中は、かなりほこりが溜まっていて、ねずみの糞なども散見されました。私たちは、引越し業者の荷下ろしを手伝ったあと、障子をはずして洗うなど、部屋の片づけを手伝いました。
 このあと、昨日の注意事項を早速経験することができました。1つ目は、おじいちゃんとおばあちゃんが冷蔵庫を置く場所をめぐって、30分ほどやり取りをしたあと、実際に私たちが動かしてみて、結局2転3転して、おばあちゃん案で落ち着きました。2つ目は、かなり傷んだ商品の陳列棚をめぐって、物を捨てない派のおじいちゃんと、捨てたい派のおばあちゃんの静かなバトルがあり、息子さんが仲介に入りました。結局、取り壊して廃棄することになり(10分程度で終了)、きれいに取り壊された棚を見ながら、おじいちゃんはとても悲しげでした。
 このお宅は、商店の2階の居住場所(老夫婦の住まい)と平屋の離れ(大おばあちゃんの住まい)があるのですが、大おばあちゃんは、4年半の避難生活の間に亡くなってしまったそうで、改めて、三宅島の現実を知らされました。
 14:00からは、近くで作業していた別の班に合流して、庭の草むしりをしました。これが、とても大変なことになっていて、当初の予定では、前面道路から玄関までの雑草除去が作業内容だったのです。ところが、依頼主のおばあちゃんが家庭菜園をしたいので、庭の雑草も除去してほしいということになり、始めたのはいいのですが、竹の根が庭中に張っていて、土を掘り起こしながらの作業になりました。専用の道具がない中で、皆で汗だくになりながら15:30まで行いました。
島の方と記念撮影 竹の根が庭いっぱいに張っていて大変でした
もくもくと草を刈るおばあちゃん 私たちの世話をしてくれた現地スタッフ
右のお二人は島民の坂上夫妻(大変お世話になりました)

死ぬときは島で!
 3日目は、全員で宿泊場所からほど近いお宅のゴミ出しと庭掃除を行いましたが、4軒ぐらいの家から2トントラック1台分ぐらい廃棄するものが出ました。三宅島にもゴミ処理場がありますが、これから大量に廃棄されるゴミの量を考えると早急な対策が必要であると思いました。

 中央地区電力総連傘下の6名の皆さんは、昼過ぎに竹芝桟橋に向けて帰られました。たった4日間のお付き合いでしたが、何とも言えない連帯感が生まれて、別れ際はとても寂しい思いがしました。

 15:00からは、当初予定になかった方から依頼があり、ベットの移動(2階から1階へ)の作業が入りました。現場に行って見ると、とても立派な家でしたが、バリアフリーの造りにはなっておらず、ほとんど寝たきりの状態のおじいちゃんと、少し足の調子が悪そうなおばあちゃんが暮らしていくには、どうなのかなと素人ながら感じました。本当は、様々な受け入れ態勢が整って、十分なケアができるようになってからの帰島が望ましいのですが、「死ぬときは島で!」との思いがご本人に強いための早期の帰島になったそうです。ここでもまた、島の現実を知りました。
作業の準備風景 だいぶ綺麗になりました
島の方と記念撮影 大量の廃棄物が出ました
島の至る所に廃棄される車がありました 溶岩に押しつぶされた小学校

復興には時間がかかる
 最終日は、朝、到着された皆さん(14名)への引継ぎと、ゴミ処理場へゴミ捨てがてら、島を車で1周してもらい、流れ出た溶岩に押しつぶされた小学校などを見て、改めて、島の状況を把握することができ、復興には時間がかかるなと感じました。

一人でも多くの参加をお願いしたい
 私にとって社会人になって初めてのボランティア活動でしたが、いくつか思い、感じることがありました。
 1つ目は、「ボランティアの壁」を強く感じたことです。それは、依頼をされている方のニーズに応えられるのに、様々な制約があって応えられないということです。
 2つ目は、島の方の生活のことです。皆さんお年のわりに大変お元気なんですが、中には体調の優れない方もいらっしゃいます。例えば、買い物の際、皆さんは車で出かけるそうですが、4年半もの間まったく運転していない方々なので、地元の警察も心配しているそうです。また、復興工事のため、大型ダンプが多く走行しているのを見ると、それも心配です。島にいる間にタクシーは1台しか見ませんでした。
 3つ目は、帰島に際しての行政の準備不足があるのではないかと感じました。短い間でしたので、私が知らなかっただけなのかもしれませんが、例えば、ゴミの処理についても帰島してきた方は、処理についてまったく理解していないこともその一つではないかと思いました。
 そして4つ目は、もしボランティア活動をする人たちがいなかったら、私たちが支援活動を行った皆さんはどのように自分たちの帰島作業を行うのか想像ができないことです。島民の方のみでは、スムーズな島の復興は相当厳しく、ボランティアの果たすべき役割は決して小さくありません。この報告を見て、少しでも多くの方が活動に参加していただければと思います。また、そのための休暇の取得に関しては、職場の理解も大切です。職場を代表して活動に参加させるぐらいの思いで、送り出していただけたら幸いです。
あしたばのおすそ分け 5日間一緒だった基幹労連の皆さん
雄山から吹き出る火山ガス さるびあ号